明治のころの扇田祭典風景 其二

名古屋市文化財 長母寺蔵

撮影 山田福男

氏子・崇敬者の変動

扇田一円が氏子である事には今も昔もかわりはないけれど、徳川時代明治に入る以前の神明社の氏子は扇田だけではなかった。曲田村・土目木村・宿内村・中山村・新館むらも含まれていた。各村の神社はもちろん神明社に属していたのである。

明治に入ってからも中頃まで神社はやはり神明社の受持ち区域であった。その後神社の統合令により、それぞれの村の神社は合併又は独立して産土神となった。氏子もそれに応じて扇田からはなれて行った事は止むないことだった。

中山村だけは、神社が独立しても今尚神明社を本家としてお祭りには部落総代が神酒を献じて参列している。

祭典日について

 元禄時代(三〇〇年前)以前まで春秋二回の大祭あったと記録にある。

「繭」の生産地であったこの扇田では、色々神社、氏子との協議の上で時の寺社奉行に旧暦六月十五・十六日の祭典日と申請している。明治に入り旧暦廃止となり七月十五・十六日となったものである。

神輿行列の形態

 神馬が一頭(今でも同じ)祭主、副祭主ともに乗馬、総代方はすべて紋付に袴姿、日・月旗、四神旗、鉄箱、等行列も厳しいもので、氏子の人々は玄関前に家族揃って居ならび戸主は、やはり紋付姿で神輿を迎い、決して、シダレの中とか、二階から見おろすことは出来なかった。

神輿の屋根に付いている秋田佐竹二十万石の殿さまに対しての礼であったと思う。

まつりの形態

大正の始め頃までは神明社境内に出店、夜店が数軒立ち並びお祭りでないとない物、又食べられないもの、普段売られていない物が売られたもので子供等には待ちのぞんだ楽しみであった。ナルトモチ、アンビンモチなども子供等の喜ぶものであった。

宵祭りは町内の老若男女が群れをなして参拝し訪れたものだった。大祭は神輿が町をねりあるき他町村の崇敬者の参拝は夜中までにぎわった。

町では親方衆が岩山(かざり山車)囃山を出したもので各丁内では全町を六区にわけ当番を決めたものであった。

素人芝居や手踊り部隊を造り大騒ぎ、又業者は軽わざ小屋、見せもの小屋など町の中のあちこちに建てられ、見るもの、聞くものが多かった。

家庭では、おまつり料理は親方衆の家でも一般でも同じで、カシベの煮物にキウリのなまし、赤飯で、客には二合入トックリ一本つくのが普通であった。

他町村の人々は扇田のカシベ祭りとひやかされたものである。

見るもの、聞くものが多かったので家に入って飲む人も食う人も少なかった。

今のように金をかけての御ちそうはなかった。